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嵯峨野観光鉄道開業物語

「嵯峨野トロッコ列車」スタートまで

トロッコ開通前の山陰線

トロッコ開通前の山陰線

旧山陰線にトロッコ列車を走らせよう――。それはJR西日本「線区別経営改善プロジェクトチーム」の、ある若手スタッフのアイデアから始まった。そのアイデアはまた、後に嵯峨野トロッコ列車に関わることになるすべての関係者にとって、「予期せぬ出来事」の始まりでもあった。

地獄の日々の始まり

トロッコを築いた長谷川一彦氏と山崎敏治氏

トロッコを築いた長谷川一彦氏と山崎敏治氏

旧国鉄からJRへと分割民営化したのが昭和62年4月。その2年後の平成元年3月、JR西日本は輸送力増強策の一環として山陰線を複線電化。プロジェクトチームのアイデアとは、複線電化により廃線となった嵯峨~馬堀間の旧ルートを復活させ、観光鉄道として再利用しようというものであった。新生JR西日本としてスタートしてまだ間もなく、プロジェクトチームのスタッフ達は、「JR西日本から新風を起こしたい」と情熱に燃えていた。スタッフからはいくつかのアイデアが出た。遊歩道、サイクルロード、そしてトロッコ列車…。地元の要望や投資コストの面から検討を重ねた結果、トロッコ列車の案が採用されることになった。しかし、即座にゴーというわけにはいかなかった。トロッコ列車の運行開始までには、まだまだいくつもの難関を越えなければなかった。
プロジェクトの統括責任者でもあるJR西日本営業本部長~本田勇一郎は早速、本社幹部に打診した。ところが社内から聴こえてくるのは反対意見ばかり。反応は冷ややかだった。しかし、本田には「トロッコ列車は必ず成功する」との確信があった。プロジェクトのスタッフ達の意気込みも本田を後押しした。「とりあえず3年。それで駄目なら撤退」という社内の同意を得て、トロッコ列車プロジェクトは動き始めることになった。しかし、あくまでも「とりあえず」だ。誰もが「お手並み拝見」とい消極的な雰囲気のなかでのスタートだった。
平成元年9月18日、嵯峨野観光鉄道開設準備室が発足。スタッフは準備室長~山崎敏治はじめわずか3名での出発だった。山崎は当時、53名の部下をもつ野洲電車区(滋賀県野洲町)の区長。「なぜ自分が」の抗議も、「サラリーマンの悲哀」という声に呑み込まれた。山崎にとっては「地獄の日々の始まり」だった。
準備室に与えられた課題は鉄道事業免許の取得であった。しかし、これがなかなか容易ではない。開業後10年間は健全経営が義務付けられるなど、新会社にとってはあまりにハードルが高く、運輸局(当時)との折衝は難航した。しかも、JR西日本社内への根回しも依然として不充分、計画は幾度も暗礁に乗り上げた。山崎らは東京出張48回。1回の出張で1週間滞在。資料を提出しては修正、そして再提出。その繰り返しだった。オーバーワークと疲労が重なり、山崎は吐血した。病院に運び込まれ、狭心症と診断された。そうした準備室スタッフの献身的な業務に加え、本社経営管理室のバックアップもあり、免許が交付されることになった。準備室発足から数え、1年3ヶ月の月日が流れていた。

沿線整備に明け暮れた日々

免許交付に先立つ同年9月14日、「嵯峨野観光鉄道株式会社」が正式に発足。開業に向けた準備作業は第二段階に突入した。JR西日本事業本部より長谷川一彦(現~嵯峨野観光鉄道社長)が社長に就任した。長谷川にとっても、この出向は「左遷」にほかならなかった。部下100名を抱え、西日本エリアに150店の飲食チェーンを展開する流通課長からの異動命令に、「サラリーマン生活もこれで終わり」と空を仰いだという。
従業員わずかに8名。その誰もが程度の差こそあれ、長谷川と同じ想いを抱いた。年間乗車予測16万人、どんなに多く見積もっても23万人。収支の黒字転換は6年後と試算された。しかも、沿線は3年間放置されたまま。レールはサビつき、草は生い茂り、路肩は崩れ、枕木は腐食し、列車などとても走らせられる状態ではなかった。

設置前のトロッコ嵐山駅
赤サビの線路(保津峡大橋)

設置前のトロッコ嵐山駅

赤サビの線路(保津峡大橋)

開通前の沿線(旧山陰線)
整備前のトロッコ嵯峨駅

開通前の沿線(旧山陰線)

整備前のトロッコ嵯峨駅

資本金2億円のうち、1億9900万まで設備投資に消え、残金わずか100万円からのスタートであった。しかし、生来の根アカを自認する長谷川は、持ち前のガッツでトロッコ列車にすべてを賭けることを決意した。
長谷川は自ら先頭に立ち、線路の補修工事に全力を投入した。その姿を見て従業員も一丸となって、昼夜を忘れて工事に従事した。彼らに共通したのは「鉄道屋」としての自負心であった。山崎は自らの出身母体である梅小路機関区の後輩に助っ人を依頼した。従業員全員やる気に満ちあふれ、一つの目標に向かって汗を流した。事態は予期せぬ方向に向かっていた。開業1ヶ月前から予約客が殺到した。営業に回るどころか、予約申し込みを断るのに精一杯。「開業後に予約客を回したい」と思うほどの反響だった。心配は「オープン後にもこれだけのお客さんが来てくれるか」に変わった。

工事中の現山陰線保津峡
整備中のトロッコ保津峡駅

工事中の現山陰線保津峡

整備中のトロッコ保津峡駅

保津峡トンネルの土砂運搬用ロープウェイ(小倉山)
感激のオープニングセレモニー

保津峡トンネルの土砂運搬用ロープウェイ(小倉山)

感激のオープニングセレモニー

日本一ちっぽけな鉄道会社の誕生

平成3年4月27日、嵯峨野トロッコ列車の一番列車スタートの日を迎えた。オープンセレモニーもすべて手づくり。社員の家族総出で準備した。当日、乗客は押すな押すなの大盛況。大勢の乗客でごった返すなか、9時16分、昔懐かしい汽笛とともに、トロッコ列車がゴトンゴトンとプラットフォームを出ていった。長谷川以下従業員全員、さまざまな感慨が去来した。駅舎も不十分、あるのは線路と列車のみ。8名の社員はいずれも”JR規格外”の個性派ばかりの寄せ集め集団。まさに見切り発車であっただけに、言葉では到底、言い尽くせない喜びがあった。
「立派な会社にして、全員でスイス~マッターホルンの登山列車に乗ろう」と長谷川が熱っぽく夢を語っても、まったく信じようとしなかった従業員が、トロッコ列車に「第二の鉄道人生」を賭けた瞬間であった。
セレモニーの席上で当時のJR西日本社長の角田達郎はこう語った。「社員8名、予備車を持たないこんなちっぽけな鉄道会社なんて見たことない」。長谷川らには、それは最大級の賛辞に聞こえた。初年度の乗客は、予想をはるかに超える67万人を数えた。そして、早くもその翌年「JR西日本社長表彰」を受賞。異例のことであった。
「どうせ3年でなくなる会社なら、せめて桜や紅葉を残そう」と始めた植樹も、いまや3千本を越え、さらに大きく成長しようとしている。

一番列車の社内風景
トロッコ亀岡駅発一番列車

一番列車の社内風景

トロッコ亀岡駅発一番列車

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