「嵯峨野観光鉄道」という名前でピンと来ない読者でも、「京都嵯峨野のトロッコ列車」といえば、「ああ、あれね」と多くの人が思い当たるに違いない。長谷川一彦氏率いる同社は、京都の嵯峨嵐山(トロッコ嵯峨駅)から亀岡の馬堀地区(トロッコ亀岡駅)まで、保津川渓谷を縫うように施設された全長7.3キロメートルの行程を、のんびり30分かけて結んでいる
「せいぜい20余万人(年間)程度しか乗客を集められないだろう」「3年もすれば間違いなくつぶれる」といった、周囲の冷ややかな視線をよそに、もてなしの気持ち溢れるユニークなサービスと、自然や地域社会との「共生」を徹底的に追求し続けた。その結果、開業初年度(1991年度)の68万人と皮切りに、順調に乗客数を伸ばし、2005年度には89.4万人を記録するなど、見事な快走振りを見せている。
観光カリスマ(第6回、国土交通省選定)にも選ばれ、全国の観光産業関係者の注目を集める長谷川氏の経営哲学に迫った。
わずか9人で…鉄道会社としての出発
-関西にお住まいの方なら、嵯峨野のトロッコ列車といえば誰もが知っていると思うのですが、いったいどれくらいの方が1年間に乗車なさるのでしょうか?
長谷川:ありがたいことに開業初年度にあたる91年の68万人から順調に推移して、昨年(05年度)は89.4万人もの方にご乗車いただくことができました。当社は1〜2月の冬期は運行していませんので89.4万人というのは10ヶ月での数字ですね。
-開業が91年ということは、まだ15年しか経っていないんですね。とても浸透しているイメージがあったのでなんだか意外です。ところで御社の成り立ちや開業に至る経緯についてご説明願えませんか。
長谷川:はい。そもそも我々が現在運行しているルートは、元々はJR西日本(87年〜)、その前は国鉄の山陰本線の一部でした、保津川渓谷を縫って走るこのルートは車窓から素晴らしい景色が楽しめるスポットとして知られていました。しかし、運行の高速化・効率化を目指して山陰本線を複雑電化していく中で、渓谷に沿って蛇行するこのルートがボトルネックとなり、トンネルで山を貫く新線へと切り替えるために、89年3月をもってこの区間は廃線となったわけです。
-その線を利用しようということになったわけですね。
長谷川:はい。これだけの景勝地ですから、地元の住民や自治体(京都府・京都市・亀岡市)から、「是非観光資源として何らかの形で残して欲しい
という請願が出されて、それに対して様々な観点から検討をした結果、「トロッコ列車を走らせる」ということをJR西日本として意志決定したわけです。
-ということは、長谷川社長も元は国鉄にいらっしゃった?
長谷川:はい。1971年に国鉄に入りました。
-なぜ国鉄への就職を希望されたのですか。鉄道マニアだったとか…(笑)。
長谷川:いいえ。もちろん嫌いではなかったですが、特に鉄道が好きで好きでしょうがないということはなかったですね。いままでは古い考え方かもしれませんが、やはり鉄道とか電力とかいった、社会インフラをつくる「大きな事業」「国家的な事業」に関わりたいという漠然とした思いを持っていました。わたしの場合、大学院で機会工学を専攻していたこともあり、鉄道の世界を志すことになったわけです。いまでは「観光事業こそがこれからの日本を支えるメイン事業」だと思ってこの仕事に打ち込んでいますが(笑)。
-嵯峨野観光鉄道に来られるまでは、国鉄やJR西日本でどのようなお仕事をなさっていたんですか。
長谷川:そうですね。車両の管理や乗務員の管理・指導といった仕事をやった後、JR西日本になってから流通部門の責任者を任されました。鉄道マンから営業マンになったようなもんです。あれだけ巨大なネットワークですから、物販飲食の規模も半端じゃありません。売上で言うと200億円超、何百という数の飲食店と、何千という数の自動販売機を管理しなくてはなりません。その中で、業績不振の店舗が増え大きな赤字を出したり、大阪駅の地下街で火事を出したり…といった失敗もありました。
-それじゃあトロッコ列車に出向するというのは左遷だったわけですか。
長谷川:まぁ異動はわたしが決める訳じゃないから本当のところはわかりません。少なくとも「ちょっと大人しくおれ!」といった意味合いはあったんでしょうね(笑)。
-トロッコ列車の経営をするということについて、勝算というか自信はあったのでしょうか。
長谷川:そんなものはありません(笑)。とにかく最初は現地へ行ってみて唖然としました。廃線になってからそのまま放置されてきたわけですから当たり前なんですが…路肩は崩れ、枕木は腐り、線路は錆び、背丈より高い雑草が生い茂り、いたるところにゴミが散乱している。「こんなところ、本当に列車が走れるのだろうか…」と。
-途方に暮れていた…。
長谷川:まぁそうもしていられないんですね。現在では正社員で20余名、全従業員で60名ほどいますが、当時JRから送り込まれた出向者はわたしを含めたった9人。それだけの人員しかいないのに、会社の設立が90年の10月で、半年後の91年4月には開業までこぎつけなくてはならない。そんな状況でした。
-それからどうされたんですか。
長谷川:いつまでも愚痴ったり落ち込んでいてもしょうがないですからね。雑草を刈り取り、沿線のゴミを拾い、線路を補修する。そうした運行のための準備活動と、お客様を呼ぶための営業・企画のための活動を並行して進めていきました。それこそ昼夜を問わずという感じでしたね。幸いわたしの必死な様を見て、他の従業員も皆協力してくれて、一丸となってなんとかやり遂げ、開業の日を迎えることができました。